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藤子不二雄Aの若い頃は新聞記者!嫁との馴れ初めや子供についても





本日2022年4月7日、漫画家の藤子不二雄Aさんが亡くなられたとのニュースが届きました。

4月7日朝8時40分頃、川崎市多摩区にあるご自宅の敷地内で倒れているところを発見され、その場で死亡が確認されたそうです。

享年88歳でした。

心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

藤子不二雄Aさんは、藤子・F・不二雄さんと共に『オバケのQ太郎』や『忍者ハットリくん』、『怪物くん』など多くの作品を世に送り出しました。

今回は、藤子不二雄Aさんの若い頃について、そして奥様との馴れ初めや子供について調べてみました。

▽この記事でわかること▽
◆藤子不二雄Aの若い頃
◆藤子不二雄Aの奥様との馴れ初め
◆藤子不二雄Aには子供はいたの?




藤子不二雄Aの若い頃

子供の頃から、漫画家になる夢を持っていた少年・我孫子素雄(あびこ・もとお/後の藤子不二雄A)。

小学校5年生の時に転校した学校で、藤本弘(後の藤子・F・不二雄)と運命の出会いを果たします。

2人は共に漫画家を目指していたのですが、我孫子さんが高校卒業後に選んだ職業は、新聞記者でした。

高校卒業後は新聞社に就職!

安孫子さんは1934年3月10日生まれ。

富山県氷見郡氷見町(現在の氷見市)のご出身です。

1944年実父を亡くしたのをきっかけで高岡市に転居します。

当時、伯父が「富山新聞社」で重役をしていました。

1952年春に高校を卒業すると、その伯父の紹介で「富山新聞社」に入社し、学芸部や社会部で活躍されました。

取材をして、インタビュー記事を書くこともあれば、似顔絵を描くこともあったようです。

地元富山では、新聞社勤務は条件がいい仕事のひとつで、給料も良かったようです。

仕事も、性に合っていたようで、楽しみながら仕事に励んでいました。

一方で、自宅では漫画製作も続けていたようです。

しかし、この新聞記者の仕事は2年で退社、1954年漫画家になるべく上京することになります。

上京するに至るきっかけは何だったのでしょうか。

2年で新聞社を辞めることになった安孫子さんでしたが、仕事自体に不満はなく、給与などの条件も良かったこともあり、辞めるかどうか悩んだそうです。

また1年後輩に、気になる女性社員もいたそうで(笑)

母親に相談するも「好きにしなさい」との返事。

悩んだ末の退職でしたが、伯父のコネで入社していた身。

当時、伯父は重役から社長になっていて、辞めると聞くと激怒されたそうです。

藤本弘氏に誘われて上京!

我孫子さんが上京するに至るきっかけは、2つあると思います。

1つ目のきっかけは、藤本さんから一緒に上京しようと誘われたから。

実は、藤本さんも、高校卒業後にお菓子の製造販売をする会社に就職しました。

安孫子さんは新聞社に2年勤務されましたが、藤本さんは入社早々に退職。

短期間とはいえ、一度違う職業に就いたからこそ、「漫画家になりたい!」という気持ちがはっきりしたのかもしれませんね。

藤本さんは、我孫子さんより一足先に、漫画家としての夢を叶えるために活動を開始されていました。

すでに仕事を辞めているのですから、もうやるしかありません!

そんな藤本さんのことを、仕事が休みの日には我孫子さんが手伝っていたようです。

2つ目のきっかけは、この後で詳しく触れますが、漫画家・手塚治虫さんとの交流です。

手塚治虫さんとの出会いが、2人を漫画家への道に進ませることになります。

高校卒業してから約2年後、我孫子さんと藤本さんは東京へ行って本格的に漫画家を目指そうと決意したのでした。

上京してトキワ荘へ

1954年に上京した我孫子さんと藤本さんは、憧れの漫画家・手塚治虫さんが住んでいたトキワ荘に住むことになります。

ここに住むことになったのは、まさに手塚治虫さんからの縁でした。

実は、安孫子さんと藤本さんは、高校卒業の直後に、手塚治虫さんを訪ねてトキワ荘に来ています。

その時、手塚治虫さんが住んでいたのはトキワ荘の14号室。

訪ねた時に、手塚さんは締め切りに追われていたタイミングだったのか、編集者の方とバタバタと作業をされていたそうで、我孫子さんは「手伝いましょうか?」と声をかけたといいます。

「僕は見るに見かねて、ちょっと手伝いましょうかって言ったら、先生も『ああ、やってくれる』っておっしゃったので、喜んでやるって。

なんと4日間、手伝ったのですね」

引用元:NHK首都圏ナビ「藤子不二雄Aさんが明かす『トキワ荘』と手塚治虫さん」

突然のアポなし訪問にもかかわらず、4日間も手塚治虫さんのお手伝いをしたのです!

当時、手塚治虫さんはすでに大人気の漫画家!

今でいう「アシスタント」というような人を雇うことなく制作されていたということですが、当時は、それが普通のことだったのです。

このことがきっかけで、忙しい時期には、富山にいる我孫子さんのところに編集者から連絡が来るようになり、何度か手伝いに来ていたそうです。

つまり「アシスタントを雇う」という概念がまだ無かったこの時に、我孫子さんと藤本さんは「日本の漫画アシスタント第一号」として手塚治虫さんを手伝ったことになります!

 

さて、我孫子さんと藤本さんが上京するというタイミングで、手塚治虫さんはトキワ荘から別の場所へ引っ越しされています。

そして、手塚治虫さんが住んでいた「トキワ荘14号室」に2人が住むことになりました。

藤本さんが上京を決意し、我孫子さんを誘った時期と、手塚治虫さんが転居しようと思っていた時期が一緒だったのは偶然かもしれませんが、手塚治虫さんの方から「もうすぐここを出るので、ここに住まないか?」と提案されたといいます。

手塚治虫さんのこの一言があったから、上京を決意したという可能性もあるように感じます。

経済的にも余裕がなかった我孫子さんと藤本さんの為に、手塚治虫さんはアパートの敷金も置いていかれたそうです。

「そもそも、トキワ荘に入れたのも、先生が、もし敷金を置いていかれなかったら、僕らは絶対、トキワ荘に入ってなかったので、その後のトキワ荘が全く変わっていたと思うのですよね。

だから、本当にね、先生には、そういう意味で漫画だけじゃなくて、私生活とかそういうこともね、ものすごくお世話になったのですね」

引用元:NHK首都圏ナビ「藤子不二雄Aさんが明かす『トキワ荘』と手塚治虫さん」

こうして、無事にトキワ荘の住人になった我孫子さんと藤本さん。

ここから、「藤子不二雄」の共同ペンネームを使って、多くの作品を世に送り出すことになります。

【トキワ荘】1932年に建てられたアパートで、手塚治虫さんをはじめ、赤塚不二夫さん、石ノ森章太郎さん、そして「藤子不二雄」の二人など、日本を代表する漫画家たちが住んでいたことで有名。

 




藤子不二雄Aの奥様との馴れ初め

我孫子先生と奥様を引き合わせたのは、挿絵画家の小林秀美さんという方です。

当時、すでに人気漫画家として多忙を極めていた安孫子先生は、新しくアシスタントを雇いたくて、小林さんに誰か紹介してくれないかと依頼。

その時に紹介されたのが、のちに奥様となる和代さんでした。

和代さんは、我孫子先生より2歳年下です。

静岡県出身で社長令嬢で、共立女子大学英文科卒の才女でもあります。

また、日本舞踊若柳流の名取でもあり、「吉以登(きいと)」という名前をもらっていたようです。

結構なお嬢様ですね!

我孫子先生は、中野の喫茶店で和代さんに最初に会った瞬間に、「この人と結婚したい」と思うほどの一目ぼれだったそうです。

結婚されたのは、1966年。

お2人の交際期間は3年でしたが、アシスタントとして仕事をされている和代さんとお付き合いしていることを、一緒に仕事をしていた仲間も一切気が付きませんでした。

また、結婚式の前日まで、我孫子先生は仕事で海外へ滞在。

結婚式の招待状が招待客の手元に届いたのは、我孫子先生がすでに海外滞在中というタイミング。

とてもハードなスケジュールの中で、結婚式が行われました。

でも、なぜこんなバタバタと落ち着かない中で式を挙げたの?!

その答えは、のちに「週刊平凡」の取材で明らかになりました。

その答えとは、ずばり、我孫子先生が「極度の照れ屋さん」だということ!

「友達にひやかさせるのが嫌なので、付き合っていることを周りに隠していた」

「友達にひやかされるのが嫌なので、招待状は自分が日本にいない間に届くように手配した」

「友達にひやかされるのが嫌なので、帰国もギリギリに、式の前日にした」

「超照れ屋さん」だったからこその行動だったのです!

同じ職場内でのお付き合いというのは、今も昔もややこしいものです。

うまくいっている間はいいですが、喧嘩したり、お別れしてしまったりすると、周りも気を遣ってしまい、職場内が変な空気になってしまうことも。

でも、そういう理由ではなく、ただただ「恥ずかしかったから」「冷やかされたくないから」という理由だったとは!

一目ぼれをした大好きな和代さんと、願い叶って結婚された我孫子先生。

新婚当時は「禁酒」と「毎日必ず家に帰る」ことを宣言されたそうです。

しかし、締め切り前など忙しい時には仕事場に泊まり込むことも多く、夜遊びも大好きだった我孫子先生。

宣言を守れた期間は、とても短かったようです。

藤子不二雄Aには子供はいたの?

我孫子先生と和代さん夫婦には、子供はいなかったようです。

ですが、考え方によっては、我孫子先生が「大きな子供」だったのかもしれません。

我孫子先生は、亡くなった父親がお寺の住職さんだったので、幼いころから精進料理を食べて育ちました。

その頃の影響で、精進料理以外の食事、例えば肉や魚などの動物性たんぱく質をいっさい食べない方でした。

好き嫌いで食べないというよりも、身体が受け付けなかったようです。

かつて、手塚治虫さんにウナギをご馳走になることがあり、尊敬する大先輩である手塚治虫先生の前で「ウナギが食べられない」とは言い出せず、決死の覚悟で一口食べた後、大量の鼻血を出してしまった、というエピソードは有名です。

我孫子先生は、結婚当時、すでに超売れっ子で大忙しの漫画家でしたので、徹夜が続くこともあります。

またお酒が好きで、夜遊びをして不摂生な生活が続くことも。

そんな我孫子先生の身体を気遣い、和代さんは、お義母さんに料理を習うなどして、精進料理のお弁当を毎日作り続けられました。

新婚当初は、なんでも食べられるようになって欲しくて、肉や魚も工夫をこらして調理されたそうです。

元気いっぱいスタミナをつけて欲しいと思ったら、肉料理が一番!なんて考えてしまいますよね?

でも、どうしても食べることが出来ない我孫子先生の食事情を理解した和代さん。

少しでも身体に良いものを、少しでも健康でいられるようにと、愛をこめて食事を作り続けられたのです。

「ワイフは当初、僕の偏食を治そうと魚をお弁当に入れたんですが、どうしても無理。

すると、僕のおふくろから一生懸命習って、タケノコのみそ煮や大根の葉をゆでてみそでいったよごし、といった肉・魚抜きの僕の好物料理を毎食、つくってくれるようになったのです」

引用元:産経新聞(2018年12月6日付)

和代さんのことを「ワイフ」と呼んでいるのも、例の「超照れ屋さん」だからこそでしょうね!

和代さんは、1985年の大晦日に脳内出血で倒れられ、左半身麻痺の後遺症に加え、失語症になってしまいました。

その後、根気よくリハビリを続けられた和代さんは、失語症を克服!

不自由ながらも、お弁当を作れるほどには回復されました。

しかし、残念ながら和代さんはもう亡くなられています。

和代さんが我孫子先生の為にお弁当を作り続けたのは、約50年だそうです。

実は、漫画家さんの中には比較的若いうちに病気になったり亡くなられたりする方が少なくありません。

トキワ荘で一緒に時を過ごした藤子・F・不二雄さんをはじめ、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さんも60~70代で亡くなられました。

「昔は、漫画家の数が少なくて徹夜、徹夜の連続。

オーバーワークのツケでしょうね

僕だけが残った。

大酒を飲んだし、朝まで遊んだり、むちゃな生活をしていたのに、80歳近くになるまで、どこも悪くなかったんです。

僕は人間には自然治癒力があるのを信じているし、ゴルフで体を動かすくらいで、他に何の健康法もやっていない。

たぶん、ワイフがつくってくれる食事のおかげでしょう」

引用元:産経新聞(2018年12月6日付)

夫婦のことは、その夫婦にしかわからないと思いますが、我孫子先生が和代さんに愛されていたのは、疑うことのない事実だと思います。

和代さんが亡くなられた後は、近所に住む姪が、我孫子先生の食事のお世話をされていたようです。

まとめ

2022年4月7日に亡くなられた「漫画家・藤子不二雄A」こと安孫子素雄さん。

今回は「藤子不二雄Aの若い頃は新聞記者!嫁との馴れ初めや子供についても」というタイトルで、記事を書いてみました。

我孫子先生は、伯父の紹介で新聞記者になったものの、2年で辞めて上京。

藤本弘さんや他の漫画家仲間と一緒にトキワ荘に住んで、漫画家として大きく羽ばたかれました。

一目ぼれをした和代さんと結婚され、子宝には恵まれなかったものの、和代さんから愛されて過ごした夫婦の時間は、幸せな日々だったのではと思います。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!



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